ガラスの靴第2弾 & 「隠れ念仏と隠し念仏」読後感
今回のガラスの靴は黒バックに挑戦してみました。背景が色付きよりも、黒の方が難しい。。
実は今回、鏡に映して撮影しています。この方が少しだけいいようです。。
手前の白い紙が本体のペーパークラフトです。周りの情景は無視してね。。
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五木寛之氏の 日本人のこころ九州・東北
うまくも簡単にも説明出来ないけれど、現代の多くの日本人が知らない歴史がここにも書かれていましたね。。。
権力者側に年貢を徴収されて貧困のなか生き抜くために、度重なる弾圧の目を逃れて必死に信仰を守り通した一群の民衆がいた。今も衰退しながら続いているという。
隠れキリシタンの話は有名だが、浄土真宗の一派にもそういう歴史があり300年以上続いているという事実。
「日本人には宗教心がない」という度重なる言説はデタラメであると、ハッキリ教えてくれる良著でした。。
現代の日本には、この手の幻想というか単純化して常識化した洗脳が数多く存在する。。
何時の時代にも、権力者側に都合の良い洗脳はあるのだろうけれど、マスコミの発達した現在ほど洗脳が行き届いたことはないのだろうと思う。
五木寛之氏は、作家でありながらマスコミにも関わり色んな仕事をされてきた。独自の感性を大切にして決して近代の科学主義 人間中心主義に迎合しないブレない視点を持っている。そういう意味では、信頼できる人間の一人だと私は思う。
本書にも沢山の見どころがあるが、興味のある方は読んで頂くとして、当ブログでも以前紹介した「異人論」「東北学」の赤坂憲雄先生と会って色んな話をしたというくだりは、個人的に嬉しく そそられました。。
遠野物語の地における、過去と現在。柳田国男があえて描かなかったエロティック。邪宗とされた隠し念仏。オシラサマ信仰の謎、、、
宮沢賢治の法華経の行者としての側面、近代主義者としての限界についての記述も腑に落ちる事が、ありました。
民俗の土台に土俗がある、という指摘は目からうろこ。
土俗という言葉の響き!なんとも素敵ではないでしょうか?
遅れたとか野蛮なという風に感じるでしょうか?
今の私は、そういう風には感じない。むしろ新鮮で 力のみなぎる可能性を秘めた呪文のようにも聞こえる。。
恐らく縄文時代より受け継がれた日本人のこころや習俗の最古層に対応する。縄文学というより土俗学。そして民俗学へ。漠然としたイメージが広がりました。。。
五木氏もアニミズム的な土俗的な中に現代の行き詰まり、人間中心主義の信仰の限界を越える可能性が潜んでいる それが東北にある気がする と書いておられる。。この点は深く共感する処です。。
五木寛之氏の 日本人のこころシリーズは、面白い。
また借りよう。。。
それでは、皆様良い週末を
また来週 。。)/